2020年09月03日

慢性痛のサイエンス 半場道子 (その1)

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1. 痛みを抑制する脳内機構:Mesolimbic dopamine system(中脳辺縁ドパミン系)
 「報酬回路」「快の情動系」だけでなく「痛み」の制御もつかさどっている。「快」と「痛み」とは、まったく対局の情動と思われるが、快情動と痛みの脳内回路網はぴったり重なる。慢性疼痛患者の多くは全身の疼痛過敏に悩まされるだけでなく、生きる意味を失い、感情喪失(anhedonia)に陥っている。

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 Mesolimbic dopamine systemは中脳腹側被蓋野(ventral tegmental area: VTA)のドパミンニューロンから発し、内側前脳束を経て腹側線条体の側坐核(nucleus accumbens: NAc)、腹側淡蒼球(ventral pallidum: VP)、嗅結節、扁桃体(amygdala: Amy)、海馬(hippocampus: HP)、中隔、前帯状皮質(anterior cingulate cortex: ACC)、前頭前皮質(prefrontal cortex: PFC)などへ軸索を伸ばすA10神経である。

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Nucleus_accumbens_MRI.png←側坐核

 私たちが何かを渇望したとき、試験に合格したとき、褒められたとき名演奏を聴いてぞくぞくしたときなど、VTAからNAcやVPに向けてドパミンが放出される。NAcニューロンがドパミンを受けて興奮すると、脳内のμーオピオイドが活性化し、幸福感、高揚感、達成感に包まれる。このドパミンシステムは生存に必要なエサ、水、交尾の対象など、報酬が期待される場合に活発化する原始的な系である。自律神経系や免疫系との活動とも直結し、根源的な生命活動として、様々な神経核にpositive actionを引き起こす。
 Mesolimbic dopamine systemは、生体が侵襲されて痛みを感じたときにも機能を発揮し、鎮痛をもたらす。侵害信号が脊髄後角から、脳幹の腕傍核(nucleus parabrachialis: PB)を経てVTAに伝わると、VTAのドパミンニューロンに活動電位の群発射が起きる。そしてニューロンの軸索先端から、高濃度のドパミンがNAcやVPに向けて放出される。
 ドパミンを受けてNAcニューロンが興奮すると、NAcのμーオピオイド受容体が活性化し、次いでμーオピオイド受容体を介した神経伝達が、内因性オピオイドを含む多くの神経核に一斉に起こってくる。μーオピオイド受容体を介した神経伝達によって活性化するのは、VP、吻側前帯状皮質(rACC)、眼窩前頭皮質(OFC)、前部島皮質(anterior insular cortex: AIC)、視床下部(Hypo)、Amy、HP、中脳水道周囲灰白質(PAG)などである。
 そしてこのとき、rACC、Amy、Hypoからの興奮性入力を受けてPAGが興奮すると,下行性疼痛抑制系が活性化して、侵害信号の伝達を脊髄後角レベルで抑制・遮断する。下行性疼痛抑制系とは、中脳や脳幹から下行する抑制系投射が、脊髄後角で侵害性信号の伝達を抑制・遮断して、鎮痛をもたらす機構である
 ドパミン・オピオイドシステムによる痛みの抑制は進化の過程で捕食者に襲われて怪我しながらも逃げて命を永らえさせる系として発達したと考えられている。命の危機という非常事態にあっては上行する侵害性入力は瞬時に遮断されて鎮痛と救命の方向に衝く。

後角
腕傍核(PB)
中脳腹側被蓋野(VTA)
【ドパミン
側坐核(NAc)・腹側淡蒼球(VP)
【μーオピオイド
吻側前帯状皮質(rACC)・視床下部(Hypo)・扁桃体(Amy)
中脳水道周囲灰白質(PAG)
下行性疼痛抑制系
後角


 モルヒネはPAGや傍巨大細胞網様核のオピオイド受容体に作用して、下行性疼痛抑制系を賦活させ、侵害信号の伝達を脊髄後角で抑制することによって鎮痛作用を発揮している。

2.側坐核(NAc: nucleus accumbens)は疼痛の慢性化に大きな役割を果たしている
 急性痛が慢性痛へ転化してしまうのか健常状態へ回復できるか重要な鍵を握るのはNAcのニューロン活動である。NAcは情動系のACC,Amy,Hippocampusと密接に連絡して快情動の発現に関与し、生きる意欲や自律神経系などの根源的な生命活動と関係している。しかし、他方では思考、期待、自己優越性の確立、楽観性の獲得などと関係している。
 これほど重要な役割を有する側坐核であるが、生体が過酷なストレスを過剰に受けると、側坐核のニューロン活動が90日以上にわたって停止してしまう(Lemos JC et al, 2012)。NAcにニューロン活動停止が起こると、ドパミンシステムは機能破綻を起こすため、ほんの些細な刺激に対しても「痛い、痛い」と悲鳴を上げる病的な状態に陥る。同時に生きる意欲が低下し、根源的な生命活動である、睡眠、食欲、自律神経活動などが障害される。このような痛みはdysfunctional pain(中枢機能障害性疼痛)と呼ばれている。
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2020年08月25日

ボクはやっと認知症のことがわかった 長谷川和夫



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「聴く」というのは「待つ」ということ。そして「待つ」というのは、その人に自分の「時間を差し上げる」こと。
という先生のお言葉が印象に残りました。

長谷川先生はご自身の認知症になってからの内的体験を、恥ずかしがったり隠そうとすることなく、的確に淡々と述べられています。セルフスティグマを持たず、認知症になったことときちんと向き合っている先生の言葉に、偽善ではなく本心から、認知症の患者さん一人一人の尊厳を大事にしてこられた先生の高邁な精神がにじみ出ているように感じられました。

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タグ:認知症
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2020年08月17日

本気でトラウマを解消したいあなたへ 藤原ちえこ



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著者の藤原ちえこさんが述べているように、「トラウマのしくみを自律神経系の働きから説明し、トラウマを解消するには、なぜ会話だけのカウンセリングや薬物療法のみではダメなのかについて、日本一分かりやすく解説した」本です。私は今まで、難しいトラウマの仕組みをこれほど平易な言葉で明確に説明してくれた本に出会ったことがありません。

「真実を知ることは癒しには欠かせません。自分を癒すという過程は、とても地味で普通なのです。」「私が癒しにとって最も大切だと信じていること、それは『癒されたいというあなたの意志』です。」「癒しの主導権は常にクライアントにある。」「セラピストは使うものであり、依存するものではない。」という言葉はメンタルクリニックでの診療にも当てはまることだと思います。


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 10年ほど前に読んだピーター・リヴァインのトラウマの本は私にとって衝撃的でした。生理学、神経科学、動物行動学などの切り口でトラウマを考察するという当時の日本では斬新なトラウマセラピーの本でした。訳も素晴らしく、訳者の藤原ちえこ(藤原千枝子)さんはリヴァインの理論を深く理解している方なんだろうなという印象を持っていました。藤原さんは本当に深く理解して、長年臨床で実践し、繰り返しの心理教育的なアウトプットがあるからこそ、日本一わかりやすいトラウマの解説書を書けたのだと思います。
 リヴァインは「人間のトラウマ症状を癒す鍵は、からだを震わせて硬直反応から抜け出し、元の機能と運動性を完全に回復する野生動物のしなやかな順応性を取り入れることである」と述べています。


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 久保隆司著、「ソマティック心理学」によりますと、トラウマ性の出来事に直面した時、闘うか逃げるかの行動をとるために、大脳辺縁系から伝達物質が放出されます。それによって自律神経系の交感神経系が活性化し、極度の覚醒状態になります。血液は皮膚や内臓から急速に筋肉内に流れ込み、心拍数、呼吸数、血圧が上昇します。瞳孔はより鮮明に見えるために拡大します。一時的には高ストレス状態になりますが、トラウマ体験をした多くの人は交感神経を覚醒させ、闘争や逃走を成功させることにより、ストレスレベルも徐々に低下し、その後トラウマに悩むことなく、PTSDを発症させることもないといいます。
 しかし、闘うことも逃げることもできない場合、大脳辺縁系はもう一つの自律神経系である副交感神経も同時に活性化させます。(通常、交感神経系と副交感神経系は相互補完的に働くので同時には活性化しません。)つまり、交感神経が極度の覚醒を継続する一方、副交感神経は身体の行動を凍り付かせてしまいます。車に例えるとアクセルとブレーキを同時に踏むような緊急事態です。動物に例えるとネコにつかまったネズミのような硬直・弛緩状態です。これは外部からは麻痺、無感覚、仮死状態のように見えますが、このような凍り付き(freezing)の体験においては、時間がゆっくりと流れ、身体感覚と感情が麻痺すると、体験者は述べます。解離の症状とも捉えられます。動物に襲われた人や高所から落下した人は、この種の解離は、体験の身体的苦痛と感情的恐怖を軽減する効果があったと報告しています。そして仮死状態のネズミは、ネコが興味を失った後に目覚めて逃げるのです。脅威から逃げることが不可能だと自覚した時にのみ発生する凍りつき反応は生き残るための優れた機能の一つではあるものの、闘争‐逃走反応を選択した人たちと比べて、トラウマ性の出来事の間に凍りつき症状を体験した人たちの場合、交感神経系と副交感神経系の双方が過覚醒状態である身体症状が慢性的となり、心理的、外部環境的な誘発因子(トリガー)により容易にPTSDが発症します。

 リヴァインの「人間のトラウマ症状を癒す鍵は、からだを震わせて硬直反応から抜け出し、元の機能と運動性を完全に回復する野生動物のしなやかな順応性を取り入れることである」とは、野生動物の仮死状態(凍り付き、硬直反応)から、からだをブルッと震わせて目覚めさせる機能を、進化の過程で無くしてしまった人間にも取り戻させようとすることだと思います。辺縁系の問題は辺縁系で解決させようという、極めて本質的な治療のように思います。




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 精神科医であり米国マサチューセッツ州にあるトラウマセンターの創立者であるベッセル・ヴァン・デア・コークのこの本も、リヴァインの本と同様、感銘を受けた本でした。


 トラウマはずっと昔に起こった事についての話という程度の物では断じてない。トラウマを負った時に刻みつけられた情動と身体的感覚が記憶としてではなく、現在における破壊的な身体的反応として経験される。自己を制御する能力を取り戻すために最初にすべきことは、過去と結びついた感覚と情動に圧倒されていると感じる事態に対処する方法を見つけることである。理性脳だけでは情動や感覚や思考をなくすことは出来ない。暴走した情動脳にアクセスして、情動脳を通常の働きに戻す必要がある(辺縁系セラピー)。神経科学者のジョセフ・ルドゥーらは、情動脳に意識的にアクセスできる唯一の方法は自己認識を通してであることを示した。つまり、自分の内部で何が起こっているかに気づいて、自分が感じているものを感じること(interception 内受容)を可能にする脳領域にである内側前頭前皮質を活性化することである。

背外側前頭前皮質の中心にある理性的で分析的な脳領域(作動記憶・行動計画)はトラウマ痕跡のほとんどが刻み込まれている情動脳と直接つながっていない!

内側前頭前皮質(自己認識・内受容の脳領域)は扁桃体(情動脳)と直接つながている!


 ヴァン・デア・コークはそのような方法の一つとして、ピーター・リヴァインによって開発されたトラウマ療法(ソマティック・エクスペリエンス)を紹介しています。


 先日、周庭(アグネス・チョウ)さんが香港警察に逮捕されるというニュースが世界中を駆け巡りました。彼女が拘束され、報道陣のフラッシュライトを浴びながら、車窓から外を見ていた時の目は大きく見開き、瞳孔は拡大しているように見えました。まさにトラウマ体験の表情です。
 世界で、今この瞬間にも、たくさんの悲しくて恐ろしい出来事が起こっていることを想うと心が痛みます。

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posted by やなぎまちストレスクリニック at 04:32| Comment(0) | TrackBack(0) | クリニックの本棚